金沢城跡、兼六園周辺は城下町金沢の中心として加賀前田家が権勢を誇った時代の風情を今に伝えているが、同時にそこは、近代から現代の金沢を物語るような時代時代の最新建築が見られる地域でもある。金沢という街は金沢城を愛しながらも、常にそれに対して挑戦的な現代の建設をし、城下町の超克を目指してきた。それが金沢の呼吸の仕方なのであろう。新しい建築「金沢21世紀美術館」という名前も、金沢が兼六園の時代で停止してしまうことへの反発が強くにじみ出ていて、非常に金沢らしい。
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2005年01月21日
2004年08月21日
ベン・シャーンの絵
実家からベン・シャーンの絵が送られてきました。もちろん本物ではなくて、1981年に開かれたベン・シャーン展のポスターのようです。なぜ今それを送ってきたんでしょうか。押入の掃除でもしたのかしら。ふしぎな気分に引きずられながらも、さっそく新宿の東急ハンズへ行って額を買い、玄関の下駄箱の上に飾りました。
このポスターの中にプリントされた絵には『二十羽の白い鳩』というタイトルがついています。少し調べてみますと、これは『ラッキードラゴン』という一連の作品群に属していることがわかりました。1954年の第五福竜丸(Lucky Dragon)事件を題材に採っています。
画面の上部、半分以上が白い鳩に埋め尽くされています。白は白でも真っ白のあっけらかんとした明るさはなく、画面下部で亡くなった船乗りの肖像を高く掲げている赤い服の女の子と、茶色の柱のようなものにしがみついている男の子の眼差しから、強い憂いと哀切な平和への願いが伝わってきます。眼差しに見つめられて、ふとノスタルジックな気分とともに別の眼差しのことを思い出しました。
2004年07月31日
MoMA展(@森美術館) 六本木ヒルズとは何か
六本木ヒルズって何だろう。
まずそれは丘です。54階建ての超高層森タワーと、いくつかの高層ビル、低層の建築、地下鉄などが複合されてある、六本木の丘の一帯です。建物の内容も複合的で、住居、オフィス、文化娯楽施設、ショッピング施設、学校、庭園などおよそ考えつくものが全て丘に集められています。ではその意味は。これを考え始めると結論が延々と先延ばしされそうですが、森タワー内の森美術館で行われているMoMA展に答えのようなものを見つけました。美術館の壁に展示の趣旨の説明書きがあり、その一部を要約すると次のような内容だったと思います(随分うろ覚えです。捏造するつもりはないので、間違いがあればご指摘願います)。
「日本の都市文化はニューヨークやロンドンに及ばない。それは文化的建築に乏しいからである。六本木ヒルズは文化的な街を念頭において設計されていて、日本の街が文化的であるための発信を絶やしたくない」
ビル屋の意図がビルの意味の全てでないことは承知の上、このビル屋の意図を考えてみます。ここでは各国の都市文化に優劣を考えています。都市や建築が文化的であるとはどういうことかと考えてみますと、実は歴史を経てみないことにはわかりません。では今どういう建築をしたらいいのか。それは最新の建築だと思います。その時一番の建築をして、文化的であるとみなされれば歴史を経て残るでしょうし、そうでなければ淘汰されていきます。何事も自然に淘汰される機能を信じれば、文化とは歴史を経て自然に形作られるはずで、その観点ではニューヨークもロンドンも日本の都市も当然の文化として横並びであるはずです。そこに優劣が生まれてくるのは、このビル屋の意図が“ある観点”から語られるからで、今その“ある観点”がモダンアートであることは明らかでしょう。
続きを読む2004年07月20日
復旧か?! JUGEM一時崩壊の経済効果
1週間ほど当サイトが閲覧できない、または更新できない状態が続いていましたが、どうにか復旧したようです。不具合が続いていた期間に当サイトをチェックしてくださった皆様には、ご迷惑をおかけしました。大変心苦しく思っています。
私が把握している限りで今回の不具合の説明を致しますと、先日JUGEMのサービスがβ版から正規版に移行するというアナウンスをしましたが、その移行作業の途中で何らかのミスがあり、閲覧、更新ともにできなくなったということのようです。現在も一部に不具合が残っています。
私どもの被害は少ないですが、中には記事の一部が失われてしまったユーザーもいらっしゃるとのことです。今回のJUGEMの失敗に関して、主にJUGEMの開発ページで、2ちゃんねるの人たちも巻き込んで(この人たちはどこの騒動でも巻き込まれにきますね)、多くのユーザーの怒りが爆発しました。それを眺めつつ、一体これは経済効果にしてどの程度の損失なのだろうかと考えました。うーん。さほどでもないんでしょうね。
毎日こつこつと日記を書いていた人たちの心の傷などといったプライスレスな問題もありますから、全てを金銭的な価値に置き換えて考えるわけにもいかないでしょうけれども、私の姿勢としては人から1円でも対価をいただけるような記事を書かねばならないなと思っています。これまでの記事が何かの拍子に全て失われてしまったとして、何円損したことになるのか。そういう風に考えてみますと、もっと修行をしなければ仕方がないのかな、と怒る気も失せます。
何はともあれ、これからもキネマトグラフをよろしくお願いします。ね。コメントやトラックバックはどなた様も大歓迎です。叱咤激励を修業の糧にしていきたい所存です。
尚、JUGEMサーバーは依然不安定かもしれません。急にまた見られないような状態になることも考えられますので、何卒ご容赦願います。
2004年04月09日
透明人間の蒸気(ゆげ)
そう、それはあまりに象徴的だ。
役者が舞台の手前まで走り込んで来られるほど奥行きをもった舞台には緞帳の代わりに大きな日の丸が垂れている。この日の丸が小道具の一つに変貌する途端、芝居の幕は開くのだが、そこに繰り広げられるのは何の危機感をも感じさせない、「野田秀樹の芝居」だった。
駄洒落のように台詞の言葉は滑走し、意味を変え、舞台の場も横滑りを起こすように移り変わる。そして役者は縦横無尽にその中を駆け回る。いつものことだ。だが、これまでの野田の芝居には何か、禁忌と触れてしまうような感覚があったのではないか。少なくとも91年に「夢の遊眠社」で初演された時にはそうであったはずだ。それは天皇といったタブーとされるモチーフにあるのではなく、台詞に散りばめられた差別表現とされる言葉にあるのでもない、象徴によるあらゆる批評的演出。だが今回、失われた禁忌はその余りにも象徴的な戯曲に皮肉にも顕れてしまった。
そう、それは象徴の過剰だ。野田作品の特徴である言葉のすりかわりはこの作品でも健在であり、万歳はバンダイへ、八百万の神は嘘八百万の神へ、等々と言葉は滑走していく。番台の湯気の向こうにある黄泉へと行こうとする主人公達の前に立ちはだかるのは、崩れた砂丘ではなく、アメリカ国旗だ。その言葉や舞台やあちらこちらではしゃぐ役者達は我々に逞しく想像を働かせることを諦めさせてしまいさえする。何故か。私は嘆息とともに、戯曲に世界が追い付いてしまったと呟いてしまう。いや、誤解されるであろうが、私は映画や舞台は如何に現実が反映されるかで良し悪しが判断されるべきだなんて露ほども思わない。舞台上は一つの世界だ。だが、野田の今回の演出、方法論はもう意味を成さないのではないか。多層的な言葉や透明な象徴と戯れ、さも啓蒙されたように劇場から去る時は終わった。また、その象徴的な舞台に観客が欺かれている場合でもないと思う。野田は初演の台本にあったハッピーエンドの部分を削除し、今回は悲劇としてこの作品を上演している。その安易な改訂を時代に則したものと捉えてはいけないはずだ。そのことは野田が企てているように思える「現代のシェイクスピア」へ近付くものであるかもしれないが。『ロミオとジュリエットが、悲劇で終わったのは、もう昔のことだ』の先、さらに先へと、我々は向かわなくてはならない。
私は今回の観劇後、いかにもなメッセージソングを歌っていながら「言いたいことなんて何もない」と言っているロックバンドの方が余程、健全である気がしてしまった。
2004年3月17日(水)〜4月13日(火) 新国立劇場 中劇場
劇作・脚本・演出・出演:野田秀樹 出演:宮沢りえ/阿部サダヲ/手塚とおる/高橋由美子/有薗芳記/大沢健/秋山菜津子/篠崎はるく/六平直政/他
