女は常に二択を迫られています。恋を諦めて仕事を選ぶか、才能を捨て妻として家に籠もるか、です。この映画を観てクリスティーヌにヤキモキしている男性はおそらく身勝手な人なのでしょう。彼女は二人の我が儘な男性の間で求愛されてどっち付かずの態度を始終続けるがゆえ事件を大きくしていきます。ここで私はオペラ座を彼女の勤める会社、ファントムを上司、ラウルを同僚である恋人と置き換えて考えてみました。
上司は彼女の才能を第一に見出した男で、愛するあまり身近に(秘書みたいな位置?)置いておきたいし、あげく職権を乱用して愛情を強要してきます。そして同僚である恋人はそんな横暴な上司の行為を許し得ず、会社(危険なもの)から彼女をわが身(家庭)に囲い込もうとします。現実にもこういった事態はままあるでしょう。しかしここでは二人の男性の所有願望だけが争われ、当の本人の意思が無視されています。この映画の中では残念ながら幕が閉じられるまで彼女の心中は推し量れませんでした。そしてそれが1870年代の女性の在り方なのです。
近代から現代になり女性の在り方は変化してきました。自立した女として社会的地位を得たい、そのためには多少身を削ってでもワーカホリックになるでしょうし、人事権を持つ上司の意を迎える努力を惜しまないはずです。しかし動物的本質というと仕舞いですが、女としては後裔を残さなければならず、そのためには素敵な男性との恋愛・結婚・平凡な家庭生活が不可欠です。最近ならば流行りの主夫や、夫婦で仕事・家事を両立させるなど、選択肢はまだまだ多様な形で増えていますが、1870年代では女は仕事と恋はどちらかに選択しなければ、ややもすると一般世間からあばずれだ、たおやめだとレッテルを貼られながら生きなければいけません。それ以前の18世紀後半の女たち、例えば『ベルサイユのばら』のアントワネットもオスカルも必然的に二択を迫られないでは生きられず、不幸にして死ぬしかありませんでした。クリスティーヌはどちらの男性を選んでも、つまり仕事と恋とどちらかを選ばなければならないという現状が変わらない限り、自分のことを幸せだと満ち足りることができないのです。
折りしも19世紀後半ヨーロッパでは産業革命や市民革命などを経て自然主義が栄え、市民芸術文化として音楽、絵画、文学などが数多く発表されました。それはこれまでの社会秩序を否定することから始まり、女性に自我が芽生える契機ともなったでしょう。例えばモーパッサンの『女の一生』などもこのころの平凡な主婦の葛藤を描いた物語です。女は何かを犠牲にし我慢しなければ生きられないのか、何も選択をせずに両方とも手にすることはできないのかを模索していた時期だったのではないかと思います。しかしながら答えが出ぬまま世界大戦へ突入しそんな市民感情はほったらかしになるのです。
冒頭、モノクロの1919年。世界大戦が終結しヨーロッパ中が壊滅状態に陥ったなかで、笑っている人間は一人としていませんでした。反対にカラーで描かれる1870年は煌びやかなオペラ座を輝きと笑顔に満ち満ちた人々が取り巻いています。才能に溢れ、愛情にも恵まれた女は二人の男性の間で葛藤しながらも、これからの未来への希望を持っていたと思うのです。モノクロとカラーの変換は、単に華やかだったオペラ座やショーが今や無いというイメージの他に、一人の女の生き死にを表していました。本来ならば幸せであろうという結婚生活が一切描かれなかったのは、恋人を選択したその時から既にモノクロは始まっており、生きながら死んでいたからだといえるでしょう。
最後に墓場に刻まれます、「良き妻として、良き母親として」幸せだったと。それは彼女のプリマドンナとしての功績は何一つ遺すことがなかった、あの地下室で"選択"をしてしまったがために平凡な人生しかおくれなかった、ということに違いないのです。墓場に置かれたファントムのバラを見てラウルは何を思ったのでしょうか。1919年でただ一つ鮮やかに色ついた真っ赤なバラ。自分との結婚のために彼女の才能を捨てさせたことを後悔しているのか、そんな顔をしているようです。
オペラ座の怪人 公式ホームページ
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[2004米/ギャガ=ヒューマックス][監督][脚本]ジョエル・シュマッカー[製作]オースティン・ショウ/ポール・ヒッチコック[製作][脚本][音楽]アンドリュー・ロイド=ウェバー[原作]ガストン・ルルー[撮影]ジョン・マシソン[出演]ジェラルド・バトラー/エミー・ロッサム/パトリック・ウィルソン/ミランダ・リチャードソン/ミニー・ドライヴァー/シアラン・ハインズ/サイモン・カロウ

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