盲目の登場人物とは、しばしば映画に好まれる存在です。これは私たちがその映画を「見て」いることと深い関わりがあるでしょう。私は幼い頃から近視ですが、幸いメガネさえかければ十分に映画を楽しめるだけの視力を得ることができます。ですから目が見えないということがどういうことなのか、よくわかりません。映画に登場する盲目の少女のことが、全然わかりません。彼女に感情移入できません。私の気持ちが彼女の気持ちに沿っているかもしれないと思った瞬間に、別の私が「本当にそうか?」と問いただしてきます。私は映画の世界を、見ることによってしか判断できませんが、彼女にそれは見えていず、私と彼女との間にあるその隔たりは、私が映画を見ている限り越えられないものに感じられます。彼女はしかし盲目とはいえ、何か別の方法で世界を感じ取っているようです。耳に聞こえる音、全身の肌触り、もしくは見えない目の内側に作られた真っ暗のスクリーンに、私には感知しえない何かが投影されているのかもしれません。彼女を理解しようとしたとき、彼女の認知の仕方を私も体得する以外に方法はないように感ぜられ、必死にそれを試みるもついに映画の幕は閉じてしまい、私は今見ることができた映画のことを実は見ることしかできなかったのだと気づかされるのです。
(以下はネタバレが含まれていますのでご注意下さい。当サイトで普段の投稿ではそういうことはあまり気にしないのですが、M.ナイト・シャマラン監督作品ですからね。いちおう。)
ヴィレッジでいう盲目の少女とは、アイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)のことですが、私は彼女のこともついにわからないままでした。彼女には特殊な能力が備わっていて、想いを寄せている人物をかすかな色で認識することができます。彼女は父エドワード(ウィリアム・ハート)とルシアス(ホアキン・フェニックス)に色を感じることができると言いました。ところがアイヴィーはルシアスに感じていた色を途中で見失ってしまいます。ルシアスがノア・パーシー(エイドリアン・ブロディ)に刺され、死に瀕しているときです。しかし彼は実際は死んでいず、アイヴィーは薬を求めて森を抜け町へ行く決心をします。果たしてアイヴィーが感じる色とはいかなるものなのでしょうか。「色がなくなる=死ぬ」であると私は勝手に思いこんでいたのですが、どうも違うようです。相手の色が見える条件は、相手が生きている、だけでなく、元気である必要もあるようです。
物語の中盤で村を覆っていた恐怖の正体が明かされました。全ては村が理想郷であり続けるために年長者が仕組んだことで、「彼ら」と呼ばれた化け物も単なる仮装に過ぎませんでした。年長者の誰かがその恐ろしい衣装を纏うことで化け物を演じていたわけです。「彼ら」が化け物であるかそれともただの村人であるかは、村人がその衣装を着ているか着ていないか、つまり見た目の違いに他なりません。盲目のアイヴィーは化け物(または村人)のことを本当はどう思っていたのでしょうか。もちろん化け物が登場するにあたって、その恐ろしさは十分に言い含められていましましたし、化け物を見た(見ることができた)村人たちが皆アイヴィーのまわりで恐れおののいていたわけですから、彼女が化け物の姿(衣装)をその目で見ることができなかったとしてもその恐怖を感じることができたでしょうし、見えない分だけ想像された化け物の姿はとても恐ろしいものだったに違いありません。しかしそれでも尚、私は盲目のアイヴィーに、目が見える人にはない神秘的な力を期待していました。そして化け物の「視覚的なおぞましさ」を無効化する盲目の千里眼をアイヴィーの目に求めていました。
町へ行くために森に分け入ったアイヴィーは、そこでノア・パーシーが扮した化け物に遭遇しました。その時点でアイヴィーは父から村の秘密を全て聞いていて、化け物などいないことを知っていました。いないはずなのに登場してしまった化け物を前にして、アイヴィーは恐れたでしょう。逃げまどう彼女は化け物がノア・パーシーであることに気づいていたのでしょうか。村でふたりは親しくしていたように見え、ノア・パーシーを見抜けても良かったのではないかと思えてなりません。それとも嫉妬に狂ったノア・パーシーはその衣装だけでなく中身もまた化け物そのものだったのでしょうか。(遡ると、かつて化け物の衣装を纏っていた年長者も、化け物そのものだったのかもしれません。)盲人が落とし穴に落ちる、というのは盲人をバカにするくだらない冗談としては使い古されています。アイヴィーはその鋭い感覚によって穴に落ちることから免れ、逆に視覚を持ったノア・パーシーをおびき寄せてその同じ穴に落とし、やっつけてしまうのでした。
「見えない」「見えていない」「見ていない」、これらの全てを盲目とすれば、アイヴィーだけでなく、ノア・パーシーもその他の村人もある意味で盲目である可能性を持っています。あの村の掟とはみんなが盲目であることなのかもしれません。村を取り囲む恐怖の森の存在が、村の外側へ向かう視線を遮断することで、村の平和が守られるのです。ですから村の子供が境界線上で森を背にして行う度胸試しは、外から目を背けて行われる限りは、村の掟を有効に強化するでしょう。
そしてスクリーンを凝視している観客もまた盲目状態に置かれます。シャマラン監督お得意のどんでん返しのストーリー展開に、盲目は必要不可欠です。「見えない」状態が謎を生むからです。そして観客の盲目が治療され、隠されたものが見えるときに、ドラマが起こります。ちょうど『シックス・センス』はそんなドラマだったような気がします。しかし、今回『ヴィレッジ』の謎は解けそうにありません。アイヴィーがまだ私たちと同じものを見ていないからです。アイヴィーの主観に近いカメラアングル、しかしあれはアイヴィーが見ているものと違うのです。
[2004米/ブエナ・ビスタ][原題]THE VILLAGE[監督][製作][脚本]M.ナイト・シャマラン[製作]スコット・ルーディン/サム・マーサー[撮影]ロジャー・ディーキンス[音楽]ジェームズ・ニュートン・ハワード[出演]ホアキン・フェニックス/ブライス・ダラス・ハワード/ウィリアム・ハート/シガニー・ウィーバー/エイドリアン・ブロディ/ジュディ・グリアー/ブレンダン・グリーソン
ヴィレッジ 公式ホームページ
[amazon][DVD] ヴィレッジ



「色」とは常識や先入観から成るわけで、たとえば赤くあるべきリンゴが紫色だったり、青くあるべき空が黒色だったりするだけで恐怖を感じます。もともとモノクロの世界なら自分の持っている色の常識を崩されないからそういうギャップは生まれないかもしれません。
どうでもいいですが、犬の視覚はモノクロなので犬用フードをカラフルにする意味が分かりません。あれは飼い主満足の愚物ですね。