ディズニーというと世代を超えて愛されているイメージがありますが、僕らの世代はみんながみんなディズニー映画のほとんどを見ているというわけではないでしょう。実際僕もディズニーの世界そのものにあまり親しみがありません。完璧な嘘の良さというのもわからなくはないですが、それに手放しで酔うということがどうもできません。ディズニーランドもそんなに行ったことないですし。このファインディング・ニモはディズニー映画でもPIXARという別の会社でつくっています。ですからいわゆるディズニー映画とは違います(現にPIXARはThe Walt Disney Co.との関係を解消)。この映画のほとんどは海の中で展開していきますが、そこには多種多様の生物が登場します。哺乳類、鳥類、そしてもちろん魚類。彼らには種や個によってそれぞれ個性があります。数秒前のことを覚えていられなかったり、潔癖症だったり、水槽のガラスに映った自分の姿を頭のいかれた双子の兄弟だと思ったり。自分を変えようと魚を食べるのを断つサメなんかも出てきます。彼らはそれぞれ違った認知をしているので、同じ海、水槽(または空)で生活していても異なった時間、空間を生きています。
場合によってはどちらかが一方を食べなきゃ生きていけないような関係もあったりします。しかし彼らはその関係のせいでお互いを憎みあったりはしません。たとえばニモがさらわれた歯科医院で出会うペリカンは、ニモと同じく水槽で飼われている魚たちとおそらく毎日交わしているであろう会話をした後、初対面のニモにウインクつきでこう言います。「俺に狙われたことはある?ごめんね、生きるためだ。」潜在的に食うか食われるかの関係があるとしてもそうなる場合以外の時に心を開けるということ。この友好関係は水槽という安全装置に支えられているのかもしれないですが、彼らにはたとえ今この瞬間に自分と同じ種族が彼らの種族を食べているとしてもそれは僕自身じゃないし、君自身でもない、という意識が存在します。食べられる側(主に魚類)も同じですがそれを変に悲観したりしないで現実をありのままに受け止めているようです。ですから魚類全体が鳥類全体を憎むなんてことはあり得ないのです。
フェインディング・ニモの中には言葉を持たないキャラクターもしばしば登場します。ひとつはクラゲで他のどのキャラクターともコミュニケーションをとることはできません。もうひとつはペリカンとともに登場する鳥(かもめ)であり、「ちょーだい、ちょーだい」と言い続けるだけなのでこちらもコミュニケーションは皆無といっていいでしょう。注目すべきは言葉を交わすことができるか否かという境界線が類によって分けられているわけではないということです。同じ鳥類でもペリカンはかもめとは話せませんが、類を超えてニモたちとは意気投合できるわけです。科が違おうが類をまたごうが気の合うやつはいるし、逆に同じ種族でも分かり合えないやつはいるということです。皮肉にもこんな単純なことを僕の嫌いなアメリカ人に再認識させられたわけです。いやいや、僕が感動するような映画を作ったやつらがたまたまアメリカにいたというだけですね。
PIXARホームページ
[amazon][DVD]ファインディング・ニモ
[2003年/アメリカ][監督・脚本] アンドリュー・スタントン[製作総指揮] ジョン・ラセター[音楽] トーマス・ニューマン[吹き替え]木梨憲武 室井滋他



ディズニーのアトランティスがナディアのパクリなんじゃないかっていう話題もありましたね。これが逆の立場だったら完全にディズニーは訴えてるんじゃないでしょうか。
マイケル・ムーアとディズニーの問題もそう。夢を売る会社の現実が見え隠れします。作品性とビジネスがときどき矛盾を生み出すのは映画の定めなんでしょうか。
映画が芸術かそれとも娯楽か、なんて話はしなくていいと思うんですが・・・それ以前に、企業の利益と公益が矛盾するようなときには間違いなく公益を優先してもらわないことには、トラックが燃え上がってしまうようなことになりますよね。それこそ科を超え類を超えた公益をね。ピクサーがんばれ。