天井でくるりくるり回っている大きな扇風機、なんていうかご存じですか?シーリング・ファンだそうです。私がいつも憧れているもののひとつです。そしてそれが似合うような南の島で暮らしたいものです。但しルナ・パパの街はごめんです。ずっと続いている茶色い荒野、見上げるまでもなく視界を占めている広い空。圧倒的に美しいのですが、それはフィルムの中で楽しむくらいが丁度良いでしょう。
どこの街だかわかりません。限りなく原野に近いその土地には、馬の隊列が目的もわからずに疾走しています。飛行機が墜落ギリギリの低空飛行で街を切り抜けます。車はガタガタの地面の上を跳ね回ります。ファーストカットから楽しいのりものショーで私を圧倒します。「収穫アンサンブル」と銘打ったダンスシーン同様、素朴で乱暴なイメージはとてもエネルギッシュです。一方それを捉えるカメラもまた激しく移動するのですが、実に洗練されていて美しい切り取り方をしているように思えました。こういう風に映画愛がビシビシ伝わってくると、嬉しいのなんの。
さて、のりもののことを考えるといつも考えてしまうことがあります。一体のりものに乗ってどこへいくというのでしょうか。大抵の場合、元の場所に戻ってくることが前提にあります。ドライブへ行くならば、帰りの運転を誰がするのかだとか、時間内に帰ってこられるのかということを考えに入れておかなければ、計画になりません。ルナ・パパの街にも同じのりものが何度となくやってきます。馬にしても車にしても列車にしても、また同じ所に戻ってきます。
それは飛行機であっても例外ではありません。大空に飛び立つ飛行機を地上から見上げてみます。ここではないどこかへ行ってしまう喪失感とか孤独感がありますね。でも本当は必ず戻ってくるのです。飛行機に乗りこんでみるとわかります。空を舞いながら、窓からさらなる上空を見上げることはあんまりないんじゃないでしょうか。どんなに高く飛んでいても、地面を見下ろさずにはいられません。飛行機もまた、月が沈み次の日に再び昇るようにして、同じ場所を行ったり来たりする運命を背負っています。特にルナ・パパの飛行機は低く飛んでいて、当サイトの田村博昭の言葉を借りるならば、地面に縛られきっているように見えます。
謎のラストシーン。見たこともないのりものに乗って娘(とおなかの子)が飛んでいきます。シーリング・ファンを利用したあののりものには帰ってくる機能がありません。娘がいくら地面を見下ろしても、街との決別は撤回されません。それを見上げる住民にとって、決別されてしまった喪失感は飛行機が飛び立つのとは比較にならないでしょう。
そののりものは目的地も知らずに上昇しています。娘はどこへ行くのでしょう。どこへ行くかわからないからこそ描けた決別ですが、やっぱり娘の行方が心配です。人が死ぬとかいなくなることに対して無責任であることがこの映画のファンタジーであり、メッセージを生む原動力なのでしょう。面白かったのでひよこマーク進呈です。(・e・)
[1999年/ドイツ・オーストリア・日本/1時間47分/カラー][配給]ユーロスペース
[監督]バフティヤル・フドイナザーロ[脚本]イラークリ・ナザーロフ[撮影]マーティン・グシュラハト/ドゥシャン・ヨクシモヴィッチ/ロスチスラフ・ピルーモフ/ラリー・ラルチェフフ[製作]カール・バウミガートナー/ヘインツ・ストゥサック/イゴール・トルストゥノブ/トーマス・コールファー/フィリップ・アヴゥリル[美術]ネグマト・ジュラエフ[音楽]ダーレル・ナザーロフ[衣装]ゼーボ・ナシーロヴァ
[出演]チュルパン・ハマートヴァ/モーリッツ・ブライプトロイ/アト・ムハメドシャノフ/ポリーナ・ライキナ/メラーブ・ミニッゼ /ニコライ・フォーメンコ/ローラ・ミルゾラヒーモヴァ/シェラリー・アブドゥルカイソフ/ディンムハメッド・アヒーモフ/アザルベック・ナスリーエフ



あれ見とると松田聖子ばかりを思い出しますがね。何故か。
>ずっと続いている茶色い荒野、見上げるまでもなく視界を占めている広い空。
そんなところで一年ばかり暮らしてみると私のように心が荒みます。
少なくとも私はそう思います。
そう、クストリッツァ作品とか、昨年のパレスチナ映画の傑作「D.I」とかそういう系統の、ココロオドルちからわざです。