ひとりで布団に入って眠れない夜に、どうしようもない孤独感に襲われるときがあります。さみしい気持ちが募って、布団を抱えこんで悶絶しながら自分の内側へ内側へと入っていくときに味わう途方もない感覚は、孤独であること、すなわち私が他人と違うという実感です。私が私でしかないという絶望的な事実がまずそこにあって、もし翌日の夜には誰かと抱きしめ合って寝ていたとしても、それは私と彼女がひとつであるということにはなりえない、そういう風に考え至るに及んで、では一体私と彼女を別の存在に隔てている絶対的な壁とはなんぞやと今抱きしめている布団に問いかけますけれども、私の冷たいせんべい布団はただ、それはそうなんだからしょうがないじゃない、なんてことを言って私を突き放すのです。
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2004年10月28日
私立探偵 濱マイク 6「名前のない森」 〜独り寝に纏わるIDクライシスについての私論〜
2004年10月24日
トゥーブラザーズ 〜子トラの肉球、野生クマに思いを馳せるの巻〜
2004年10月14日
ヴィレッジ 〜盲目と映画との距離〜
盲目の登場人物とは、しばしば映画に好まれる存在です。これは私たちがその映画を「見て」いることと深い関わりがあるでしょう。私は幼い頃から近視ですが、幸いメガネさえかければ十分に映画を楽しめるだけの視力を得ることができます。ですから目が見えないということがどういうことなのか、よくわかりません。映画に登場する盲目の少女のことが、全然わかりません。彼女に感情移入できません。私の気持ちが彼女の気持ちに沿っているかもしれないと思った瞬間に、別の私が「本当にそうか?」と問いただしてきます。私は映画の世界を、見ることによってしか判断できませんが、彼女にそれは見えていず、私と彼女との間にあるその隔たりは、私が映画を見ている限り越えられないものに感じられます。彼女はしかし盲目とはいえ、何か別の方法で世界を感じ取っているようです。耳に聞こえる音、全身の肌触り、もしくは見えない目の内側に作られた真っ暗のスクリーンに、私には感知しえない何かが投影されているのかもしれません。彼女を理解しようとしたとき、彼女の認知の仕方を私も体得する以外に方法はないように感ぜられ、必死にそれを試みるもついに映画の幕は閉じてしまい、私は今見ることができた映画のことを実は見ることしかできなかったのだと気づかされるのです。
(以下はネタバレが含まれていますのでご注意下さい。当サイトで普段の投稿ではそういうことはあまり気にしないのですが、M.ナイト・シャマラン監督作品ですからね。いちおう。)
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