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2004年04月09日

透明人間の蒸気(ゆげ)

そう、それはあまりに象徴的だ。




役者が舞台の手前まで走り込んで来られるほど奥行きをもった舞台には緞帳の代わりに大きな日の丸が垂れている。この日の丸が小道具の一つに変貌する途端、芝居の幕は開くのだが、そこに繰り広げられるのは何の危機感をも感じさせない、「野田秀樹の芝居」だった。




駄洒落のように台詞の言葉は滑走し、意味を変え、舞台の場も横滑りを起こすように移り変わる。そして役者は縦横無尽にその中を駆け回る。いつものことだ。だが、これまでの野田の芝居には何か、禁忌と触れてしまうような感覚があったのではないか。少なくとも91年に「夢の遊眠社」で初演された時にはそうであったはずだ。それは天皇といったタブーとされるモチーフにあるのではなく、台詞に散りばめられた差別表現とされる言葉にあるのでもない、象徴によるあらゆる批評的演出。だが今回、失われた禁忌はその余りにも象徴的な戯曲に皮肉にも顕れてしまった。




そう、それは象徴の過剰だ。野田作品の特徴である言葉のすりかわりはこの作品でも健在であり、万歳はバンダイへ、八百万の神は嘘八百万の神へ、等々と言葉は滑走していく。番台の湯気の向こうにある黄泉へと行こうとする主人公達の前に立ちはだかるのは、崩れた砂丘ではなく、アメリカ国旗だ。その言葉や舞台やあちらこちらではしゃぐ役者達は我々に逞しく想像を働かせることを諦めさせてしまいさえする。何故か。私は嘆息とともに、戯曲に世界が追い付いてしまったと呟いてしまう。いや、誤解されるであろうが、私は映画や舞台は如何に現実が反映されるかで良し悪しが判断されるべきだなんて露ほども思わない。舞台上は一つの世界だ。だが、野田の今回の演出、方法論はもう意味を成さないのではないか。多層的な言葉や透明な象徴と戯れ、さも啓蒙されたように劇場から去る時は終わった。また、その象徴的な舞台に観客が欺かれている場合でもないと思う。野田は初演の台本にあったハッピーエンドの部分を削除し、今回は悲劇としてこの作品を上演している。その安易な改訂を時代に則したものと捉えてはいけないはずだ。そのことは野田が企てているように思える「現代のシェイクスピア」へ近付くものであるかもしれないが。『ロミオとジュリエットが、悲劇で終わったのは、もう昔のことだ』の先、さらに先へと、我々は向かわなくてはならない。




私は今回の観劇後、いかにもなメッセージソングを歌っていながら「言いたいことなんて何もない」と言っているロックバンドの方が余程、健全である気がしてしまった。





新国立劇場ホームページ




2004年3月17日(水)〜4月13日(火) 新国立劇場 中劇場
劇作・脚本・演出・出演:野田秀樹 出演:宮沢りえ/阿部サダヲ/手塚とおる/高橋由美子/有薗芳記/大沢健/秋山菜津子/篠崎はるく/六平直政/他

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ショーン・ペンのアカデミー最優秀主演男優賞受賞について思うこと

ミスティック・リバー 特別版 〈2枚組〉2003年度、第76回アカデミー賞で『ミスティック・リバー』のショーン・ペンが最優秀主演男優賞、ティム・ロビンスが最優秀助演男優賞を受賞した。順当な結果だといわざるを得ないのだが、あの政治的なアカデミー会員に一票を投じさせたのだから、改めて彼らの演技は誰もが納得する「本物」だったのだと確認できる。実際、議論の余地がないほどに『ミスティック・リバー』で演じている俳優陣は輝きを放っていた。しかし、あれほど凡作に賞を与えつづけてきた愚かなアカデミー会員たちが、何故に主演をジミー(ショーン・ペン)、助演をデイヴ(ティム・ロビンス)に判別できたのだろうかという疑念が残る。無論のこと、プレスなどにそう記されていたのかもしれない。エンドロールの先頭は確かにショーン・ペンであった。単にそれだけのことかもしれない。しかし、観客のなかには、デイヴの心の傷にこそ感情移入し、彼を主演だと思った者もいたに違いない。刑事=捜査する人=見つめる人、という図式からケビン・ベーコン=ショーンこそ主役だと考えることも可能である。事実、大人になった姿で最初に登場する作中人物はジミーではなく、デイヴだった。だのに、何故、当然のごとくにジミーことショーン・ペンが主演だと誰も疑うことをしなかったのであろうか。しかし、かく言う私も実はショーン・ペンこそ主演に相応しい人物だったと確信している。それは、べつだん抽象的な意味においてではない。具体的な「徴」としてフィルムに刻印されているのだ。




『ミスティック・リバー』の監督、クリント・イーストウッドは自身の作品に出演する際、惜し気もなくその素肌を観客に晒す。前作『ブラッド・ワーク』でも、私たちは70歳を超えていたイーストウッドの素肌を目撃した。さすがのイーストウッドでさえ、老化現象に抗うことはできないのかと溜息を吐くと同時、何故そこまで素肌を晒さねば気がすまないのかと誰もが訝しげに首をひねたであろう。勿論、女性とのラヴ・シーンを演じるために衣服を脱ぎ捨てるのだし、また、心臓移植の術後検査のためにシャツを捲り上げなければならないのだが、老体の俳優(イーストウッド)に、素肌を露わにすることを強要する監督(イーストウッド)のこの執拗さとは何なのか。もし仮に、俳優イーストウッドが素肌を晒すことを恥じて演出を拒絶しても、監督イーストウッドはそれを許さないだろう。それほどまでに、監督イーストウッドは「素肌を晒すこと」に執着する。

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posted by KINEMAtograph Writers at 00:36| Comment(1) | TrackBack(0) | Kinema | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする