ぱっと見る限りあまり評判がよろしくない、CASSHERNです。テレビではヒッキリ夫妻が並んだ試写会映像がひっきりなしです(言いたいだけ)。大注目作だけに反響が大きいのでしょう。そして何かしらのヤッカミが作用して、観客の目が厳しくなっています。そうとあらば擁護するほかないでしょう。
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2004年04月28日
CASSHERN 樋口可南子は紗をかけずとも美しい
2004年04月27日
CASSHERN
日本の大作アニメを観たあとは、なぜか自分が誇らしげになります。きっと多くの日本人がそうなるんじゃないかと、(勝手に)私は思っています。宮崎監督も押井監督も、日本人が細かい技術に長け有能であることを世界に知らしめるとともに、自分たち日本人に誇りや勇気を与えてくれる貴重な存在です。アニメとは誰も言ってませんがこのキャシャーンを観ても、その気持ちはまたさらに高まりました。
けれども紀里谷監督は映像クリエイターです。このクリエイターという言葉にひっかかります。私はキャシャーンを見る限り、この監督は映画を撮ることは難しいのではないかと感じました。なぜかというと、これを観たあと脳に焼き付けられたシーンがあまりなかったからです。唯一、新造人間が生まれてすぐに軍に狙われぞろぞろと逃げまどうシーンは、「人間じゃない」新造人間が人間らしく生命力に溢れ、素敵だと感じたくらいで、それ以外は映画を観ているというよりはプレステでファイナルファンタジーをやっている時の感覚と相違なく感じてしまいました。映画とは、心を突き動かす瞬間的な絵がフィルム、物語中に刻まれているかどうかで決まる、と私は思っています。そこには素材を切り刻むテクニックよりも、素材を見いだすセンスが必要とされます。この手のCGアニメを観ると手の込んだ技術に圧巻されはするものの、それ以外の「何か」を持って帰ることができないのは、根本的に映画とは力の入れどころが全く違うからなのでしょうか。そういう意味で、紀里谷監督は映像クリエイター=技術屋としては一流であっても、(今のところ)アーティスト=芸術家ではないと思わざるを得ません。
この実写×CGアニメのジャンルが地位を確立されたらば、日本人である私はさらに(勝手に)誇らしげになり嬉しくもなります。けれども映画という映画がこればっかりになったら、なんだか淋しい感じがします。終始全体に流れる大げさな音楽、説明過多なセリフ・モノローグ。映像作家ならば、もっと絵で語ることを貫いて欲しいものですが、最後にヒッキーのテーマ曲で締められて納得。長いプロモを観たという印象で終わりました。だって、やっぱりヒッキーの歌が一番素敵だったんだもの。
関連記事 CASSHERN 樋口可南子は紗をかけずとも美しい (2004/4/28)
CASSHERN ホームページ
タツノコワールド
[amazon][DVD] キャシャーン
[2004日本/松竹]
[監督][脚本][撮影]紀里谷和明[製作]宮島秀司/小澤俊晴/若林利明[脚本]菅正太郎/佐藤大[撮影]森下彰三[出演]伊勢谷友介/麻生久美子/唐沢寿明/寺尾聰/樋口可南子/小日向文世/宮迫博之
2004年04月23日
特集 すてきな名前の映画人
まず、モフセン・マフマルバフ監督があげられます。まふまるばふ、まふまるばふ、まふまるばふ。何度も声に出して読みたくなる名前です。特に、「マ」と「フ」が織りなすコクとクセはイラン人ならではの絶妙さです。当然のことながら家族もみんなマフマルバフなんですが、もっとすごいのはみんな映画監督だということです。娘のサミラとハナは先日来日して話題になりましたね。そして彼と彼の家族の経歴がまた壮絶です。少し不謹慎ですが、本当の映画監督とはこういうものだ、とさえ思えてきます。
マフマルバフ映画家族(シアター・イメージフォーラム)
注:この特集上映は終了しています。
その他に今ぱっと思いつく人で言えば、有名なサミュエル・エル・ジャクソンは、えるえると繰り返す感じが堪らない響きです。また、4月2日の記事で取り上げたフルーツ・チャン(陳果)あたりはかっこよすぎてちょっとずるいです。
このことは兼ねてからの懸案でした。
折角こうしてインターネットしているわけですから、ちょっともしかしたら解決できるのではないかと思ったのです。誰か気になるお名前の方をご存じでしたら、ご教授いただければ幸いです。
2004年04月20日
青の稲妻
長回しの映像、じっくりと押し黙ってしまう時間、反復する役者の運動。持続的なショットが積み重なっていきます。眠気をこらえて眺めていました。しかし徐々に画面の温度が高まってきます。圧力鍋に閉じこめられているようです。沸騰すれば水蒸気になって広がっていけるはずです。コトコトとそのチャンスが見え隠れします。しかし鍋蓋は意外に固く閉じられていて、温度と内圧だけ高まりながら沸くことができません。
長回しの映像は若者たちと彼らがいる中国の現在をリンクしています。彼らのいる土地と、彼らの周りの雑音がきっちりとサンプルされていて、中国の地方都市の変化を告げています。そして彼らにも変化のチャンスを示しています。
チャンスの兆しを感じ取ったからといって、すぐさま飛び立てるわけではありません。若者は時に押し黙ってしまったり、時に繰り返しぶつかっていったりして、鍋蓋に抵抗します。しかし鍋蓋は彼らを簡単に解放したりしません。エネルギーは解決のために発散されるわけではなく、彼らの内側を膨らませるだけです。
若者が前進するとき、カメラはその正面をフォローします。常に若者を正面に捉えて、背景が奥に流れていきます。若者の強い眼差しは伝わります。しかし私たちに彼が見据える先を知る術はないのです。未来は彼の目の前にあるはずなのですが、正体がつかみ切れません。ジャ・ジャンクーは若者のフラストレーションを映像に閉じこめにしてしまったようです。
物語の終わり近くに雑音が知らせてくれました。彼らがたむろしているビリヤード場がバスの停留所に近くあることを。いっそバスに乗ってどこかへ行ってしまえばいいのに、若者はまだそこに足留めを食っていて、たむろしているしかないのだと。
[2002 中・日・韓・仏][原題]任逍遥/UNKNOWN PLEASURES[監督・脚本]ジャ・ジャンクー[製作]森昌行,定井勇二[プロデューサー] 市山尚三,リー・キットミン[撮影]ユー・リクウァイ[美術]リャン・チントン[出演]チャオ・タオ,チャオ・ウェイウェイ,ウー・チョン,リー・チュウビン,チョウ・チンフォン,ワン・ホンウェイ
2004年04月18日
2004年04月13日
ディボース・ショウ
私はハッピーエンドが大好きです。アメリカ人が真剣に取り組んだことの中で、ハッピーエンドシステムほどの発明はないでしょう。話を転がすだけ転がしておいて、最後はどんな流れであろうが、キスしてエンドマークです。その不自然さを嫌う人もいますが、私はむしろとんでもない不自然さでキスしてくれた方がいいんです。それこそが映画的というやつだといって諸手を挙げて賛成します。
目の前でキスをしたという事実があるからには、観客は彼らが恋に落ちたことを認めざるをえなくなります。いかに直前までいがみあっていたとしても、そんなことは次の一瞬の飛び道具的な事実の前に無力化します。映像=事実=行為の力が最高に発揮される瞬間です。そんな古きよきラヴ・アンド・ピースを、現在一番わかっているのは窪塚くんではなくして、ウディ・アレンとコーエン兄弟に他ならないのです。(私がミーハー的になって、彼らの前で批判精神を無力化されているものまたひとつの問題です。)
アメリカ大統領とテロリストがキスしてエンドマークという話を映画にしたらすごく面白いと思います。ただしこの話にはリアリティがなさすぎます。ひどい話です。この場合悪いのは映画ではなくて世界の方です。もし世界への批判精神から世にも恐ろしい戦いの映画を作ったら、リアリティ満点で素晴らしい映画になることは間違いないでしょう。但しそれで終わってしまえば現在を描いたにすぎないわけです。そこからさらに踏み込んで、作品に未来へのメッセージを込めるならば、バッドエンドにしてはいけません。キスしてエンドマークという希望の未来を臆面なく描くことができる監督の良心がとても好きです。
ディボース・ショウ ホームページ
[amazon] ディボース・ショウ
[amazon] ウディ・アレン
[2003米/UIP] [監督][脚本]ジョエル・コーエン [製作][脚本]イーサン・コーエン [製作]ブライアン・グレイザー [脚本]ロバート・ラムゼイ/マシュー・ストーン [撮影]ロジャー・ディーキンズ [音楽]カーター・バーウェル [出演]ジョージ・クルーニー/キャサリン・ゼタ=ジョーンズ/ジェフリー・ラッシュ/ビリー・ボブ・ソーントン/セドリック・ジ・エンターテイナー/エドワード・ハーマン/リチャード・ジェンキンス
2004年04月12日
トーク・トゥ・ハー
・共有結合について
水素分子を構造式で表すと、 H-H となります。 H- さんは常に一本の手を伸ばしていて、誰かと手をつなぎたがっています。要するに H- と H- がお互いに手を取り合って、安定した H-H となっているわけです。H- はひとりでは居られません。電子がひとつ足りない状態はあまりに不安定であると、高校化学で教わります。
・ハロゲンの酸化力について
K-I は K- と I- が手を取り合ったヨウ化カリウムという物質です。ここに Cl- がやってくることがあります。すると K- は I- から Cl- に乗り換えてしまって、 K-Cl (塩化カリウム)という安定状態に入ります。相手がいなくなった I- は不安定な状態に置かれ、他の誰かをさがし始めます。大抵は同じ境遇で隣にいた I- と結びついて I-I (ヨウ素)となります。
・配位結合について
H- には変なやつがいます。 H-O-H (水)はすでに全員が手結んでいて、余った手がないのですが、そこにもうひとりの H- がやってくると一方的に結びついて、 H3O+(オキソニウムイオン) になってしまいます。
こんなことを書いても、トーク・トゥ・ハーを見て流した涙の真実を語ることはできませんね。
ペドロ・アルモドバル監督は慎重に”2つ”ずつ描いていました。画面に映っているのは2人の人や対のものばかりです。その均衡の中で、ときにひとりぼっちが映り、ときに3人が映り、ときに2人+植物状態の女が映るとき、私たちはドキッとせざるをえません。とてもとても不安定になるのです。「うまい」と呻り、心からの拍手を送るほかありませんでした。
トーク・トゥ・ハー ホームページ
[amazon] トーク・トゥ・ハー
2002年/スペイン/1時間53分/配給:ギャガ・コミュニケーションズ
監督・脚本:ペドロ・アルモドバル/出演:レオノール・ワトリング、ハビエル・カマラ、ダリオ・グランディネッティ、ロサリオ・フローレス、フェラルディン・チャップリン 、パス・ベガ、ピナ・バウシュ
2004年04月11日
サッカー批評、はじめました。
KINEMAtograph[キネマトグラフ]の新しい仲間として先日より小峰健二が加わりました。
いきなりサッカー批評なのでビビるんですけど、これが結構面白いので管理人としてはこのサイトがスポーツ批評サイトになることもやぶさかではありません。
(・e・)
さてこの頃当サイトがすっかりamazonづいてることにお気づきの方も多いと思いますが、冗談だと思って見放さないでください。もし万が一DVDなどをご入手なさりたいと思われた際には、当サイトのリンクからお買いあげいただくことで、管理人が儲かる仕組みになっております。お客様には何の特典も御座いません。あしからず。
先日百草園へ花見に行って参りました。とてもきれいなぼけの花が咲いておりました。耳をすませばさまざまな鳥のさえずりも聞こえてきます。ただ、園内のところどころに鉄塔が立っていて、そのてっぺんにスピーカーが設置されていることだけが、なんだか気がかりです。
(・e・)ぴよぴよ
2004年04月09日
透明人間の蒸気(ゆげ)
そう、それはあまりに象徴的だ。
役者が舞台の手前まで走り込んで来られるほど奥行きをもった舞台には緞帳の代わりに大きな日の丸が垂れている。この日の丸が小道具の一つに変貌する途端、芝居の幕は開くのだが、そこに繰り広げられるのは何の危機感をも感じさせない、「野田秀樹の芝居」だった。
駄洒落のように台詞の言葉は滑走し、意味を変え、舞台の場も横滑りを起こすように移り変わる。そして役者は縦横無尽にその中を駆け回る。いつものことだ。だが、これまでの野田の芝居には何か、禁忌と触れてしまうような感覚があったのではないか。少なくとも91年に「夢の遊眠社」で初演された時にはそうであったはずだ。それは天皇といったタブーとされるモチーフにあるのではなく、台詞に散りばめられた差別表現とされる言葉にあるのでもない、象徴によるあらゆる批評的演出。だが今回、失われた禁忌はその余りにも象徴的な戯曲に皮肉にも顕れてしまった。
そう、それは象徴の過剰だ。野田作品の特徴である言葉のすりかわりはこの作品でも健在であり、万歳はバンダイへ、八百万の神は嘘八百万の神へ、等々と言葉は滑走していく。番台の湯気の向こうにある黄泉へと行こうとする主人公達の前に立ちはだかるのは、崩れた砂丘ではなく、アメリカ国旗だ。その言葉や舞台やあちらこちらではしゃぐ役者達は我々に逞しく想像を働かせることを諦めさせてしまいさえする。何故か。私は嘆息とともに、戯曲に世界が追い付いてしまったと呟いてしまう。いや、誤解されるであろうが、私は映画や舞台は如何に現実が反映されるかで良し悪しが判断されるべきだなんて露ほども思わない。舞台上は一つの世界だ。だが、野田の今回の演出、方法論はもう意味を成さないのではないか。多層的な言葉や透明な象徴と戯れ、さも啓蒙されたように劇場から去る時は終わった。また、その象徴的な舞台に観客が欺かれている場合でもないと思う。野田は初演の台本にあったハッピーエンドの部分を削除し、今回は悲劇としてこの作品を上演している。その安易な改訂を時代に則したものと捉えてはいけないはずだ。そのことは野田が企てているように思える「現代のシェイクスピア」へ近付くものであるかもしれないが。『ロミオとジュリエットが、悲劇で終わったのは、もう昔のことだ』の先、さらに先へと、我々は向かわなくてはならない。
私は今回の観劇後、いかにもなメッセージソングを歌っていながら「言いたいことなんて何もない」と言っているロックバンドの方が余程、健全である気がしてしまった。
2004年3月17日(水)〜4月13日(火) 新国立劇場 中劇場
劇作・脚本・演出・出演:野田秀樹 出演:宮沢りえ/阿部サダヲ/手塚とおる/高橋由美子/有薗芳記/大沢健/秋山菜津子/篠崎はるく/六平直政/他
ショーン・ペンのアカデミー最優秀主演男優賞受賞について思うこと
2003年度、第76回アカデミー賞で『ミスティック・リバー』のショーン・ペンが最優秀主演男優賞、ティム・ロビンスが最優秀助演男優賞を受賞した。順当な結果だといわざるを得ないのだが、あの政治的なアカデミー会員に一票を投じさせたのだから、改めて彼らの演技は誰もが納得する「本物」だったのだと確認できる。実際、議論の余地がないほどに『ミスティック・リバー』で演じている俳優陣は輝きを放っていた。しかし、あれほど凡作に賞を与えつづけてきた愚かなアカデミー会員たちが、何故に主演をジミー(ショーン・ペン)、助演をデイヴ(ティム・ロビンス)に判別できたのだろうかという疑念が残る。無論のこと、プレスなどにそう記されていたのかもしれない。エンドロールの先頭は確かにショーン・ペンであった。単にそれだけのことかもしれない。しかし、観客のなかには、デイヴの心の傷にこそ感情移入し、彼を主演だと思った者もいたに違いない。刑事=捜査する人=見つめる人、という図式からケビン・ベーコン=ショーンこそ主役だと考えることも可能である。事実、大人になった姿で最初に登場する作中人物はジミーではなく、デイヴだった。だのに、何故、当然のごとくにジミーことショーン・ペンが主演だと誰も疑うことをしなかったのであろうか。しかし、かく言う私も実はショーン・ペンこそ主演に相応しい人物だったと確信している。それは、べつだん抽象的な意味においてではない。具体的な「徴」としてフィルムに刻印されているのだ。
『ミスティック・リバー』の監督、クリント・イーストウッドは自身の作品に出演する際、惜し気もなくその素肌を観客に晒す。前作『ブラッド・ワーク』でも、私たちは70歳を超えていたイーストウッドの素肌を目撃した。さすがのイーストウッドでさえ、老化現象に抗うことはできないのかと溜息を吐くと同時、何故そこまで素肌を晒さねば気がすまないのかと誰もが訝しげに首をひねたであろう。勿論、女性とのラヴ・シーンを演じるために衣服を脱ぎ捨てるのだし、また、心臓移植の術後検査のためにシャツを捲り上げなければならないのだが、老体の俳優(イーストウッド)に、素肌を露わにすることを強要する監督(イーストウッド)のこの執拗さとは何なのか。もし仮に、俳優イーストウッドが素肌を晒すことを恥じて演出を拒絶しても、監督イーストウッドはそれを許さないだろう。それほどまでに、監督イーストウッドは「素肌を晒すこと」に執着する。
続きを読む2004年04月08日
フットボールを見ることの不可避の残酷性
フットボールは、時として残酷極まりない体験を用意する。それは見ることの残酷性と言ってもよいものだ。
チームの完成度、戦術の美しさ、個々人の能力等、様々な要件を鑑みて「強い」チームは確実に存在する。私の考えではアーセン・ヴェンゲルが率い、ティエリ・アンリの居るアーセナルがそれにあたる。ヴェンゲルの志向するフットボールは、来るべき未来のフットボールの姿であるし、アンリの運動は、同僚のベルカンプやピレスが述べるように、二三年先を行っている。レアル・マドリードが「銀河系軍団」ならば、アーセナルは「異次元軍団」なのだ。なぜなら、アーセナルは、「時間」を超越しているチームだからである。銀河系という途方もない距離や広さをも凌駕する、「時間」という概念がアーセナルには付随するのである。しかし、それはアーセナルがフットボールの未来を体現しているという理由からだけではない。今現在なる「時間」さえも統御できるという意味も有する。実際、アーセナルのゲームは、その戦術的プランによって空間ばかりか時間をも演出し、ゲーム自体を支配する。アーセナルのゲームを一度でもみたことのあるものなら、その一見不可思議な印象を拭うことなどできないであろう。それは新しいフットボールの姿だからである。
アーセナルは空間ばかりか時間をも支配する。その事実ゆえ、今年のリーグ戦は無敗なのであり、強豪にしては僅差のゲームが多いのである。逆に、「銀河系軍団」のほうは、乱打戦や僅差負けを繰り返している。それは、彼らのフットボールに「時間」の概念がないからである。かろうじてジダンだけが、フットボールに「時間」が必要だと知っているので、何とかリーグ戦首位でいられるのだ。なぜ、あれだけのタレントを擁しチームが機能しないのかは、個性と個性がぶつかるからではない。単に「時間」というものに、コーチ、選手が鈍感だからである。「空間」を支配しても「時間」を操れなければ、ゲームには勝てなくなっている。それが今のフットボールなのだ。
続きを読む2004年04月02日
ハリウッド★ホンコン
1998年、始皇帝暗殺で私の心を捉えたのはコン・リーの芝居ではなく、劇中にほんの少しだけ登場した盲目の少女の美貌でした。数日間、あの娘は誰だ!と気になっていたはずなのですが、それから自然に忘れてしまったようです。
時が経ち、その少女はハリウッドホンコンの主演女優ジョウ・シュン(周迅)として再び私の前に登場しました。(その間にも彼女の出演作品はあったはずなのですが…)再び、あの娘は誰だ!ということで鑑賞後に調べてわかりました。私の中で6年来の記憶が繋がったわけですが、これでは恋とはいえないようです。私はダイホム・ビレッジの男たちと同じく彼女にすっかり翻弄されてしまったというわけです。
香港の急速な変化の中で、ダイホムビレッジは取り壊し間近です。また時間を置いてそこを訪れたとしても、もうないのでしょう。そういえば戻ってきたはずの右腕は、他人の左腕でした。そういえば帰ってきたママ(メス豚)は出て行ったママとは違う豚かもしれません。そういえば再度娘のホームページを訪れたときはもうそこにそれはありませんでした。そういえば彼女は1回しかサセてくれませんでした。
もうそれがそこにないことに気がついて、そういえば、と思いながらそこに止まっているような男たちのことを娘は待ってくれません。娘が遊んだブランコにあとから乗って、前に後ろに往復しているのではずいぶん遅い。そこにあったはずの香港はメス豚のママも含めて、もう別の香港にすりかわっています。ぐずぐずしている間に、娘はハリウッドホンコンからハリウッドへ旅立っていて、残された男たちに苦いものが残ります。ただ一人、娘の未来のために自分の体よりも大きな旗を振った幼い男の子、彼だけが未来へ向かう彼女との恋に成功したのではないでしょうか。
出会い別れのこのシーズンに見たハリウッドホンコンは、私にとってキビしい寓話でした。一足先に新天地へと行ってしまった友を思い、そういえばもうそこにいない、とハッとしているようではもう遅いかもしれません。気がついたら盲目の少女は少しミステリアスな香りのある大女優になっていました。
ハリウッド★ホンコンホームページ
[amazon] ハリウッド★ホンコンHOLLYWOOD HONG-KONG
[amazon] 始皇帝暗殺
2001年/フランス・香港・日本/108分/カラー/ヴィスタサイズ/ドルビーSRD/35mm 監督・脚本:フルーツ・チャン 出演:ジョウ・シュン/グレン・チン/ウォン・ユーナン/ホウ・サイマン/レオン・ツィーピン /ママ 製作:ドリス・ヤン/春名慶/シルヴァイン・バーステイン/クリスティン・ラベット 撮影:オー・シンプイ 配給:メディア・スーツ/博報堂

