イーストウッドにとって、地面は些か重要であるように思える。それは土着という言葉には容易に換言され得ないものであり、また大文字で始められる固有名詞を持ち得る意味では関連付けられるかもしれない、そんな地面である。一考してみれば、彼のフィルム群は地面との密接な共犯関係をとっている。今日になってイーストウッドの代名詞として西部劇を語ってしまうのは軽薄であるかもしれないが、その西部劇にあっても、地面が露わにする土地がなければ成立しない。つまりはパリや東京、更に言えばニューヨークやラスベガスでは西部劇は撮り得ないのであり、舞台としての地面が我々に迫るのだ。そして地面から乖離していく『スペースカウボーイ』、サバナという土地の物語『真夜中のサバナ』も然り。また、『恐怖のメロディ』から多用されるイーストウッド作品の特権的な空撮は優雅で壮大な映像を演出する為ではなく、地面をそのフィルムに捉える試みではなかったか。地面は、それがコンクリートジャングルと言われる都会であっても壮麗な山脈の連なる大地であっても、人々の営みが立脚する生にとって始源の場であり、一方で我々が還り着く死という終焉の場でもある。『ペイルライダー』の採鉱者達が彼の土地で生き続けようとするのも、『真夜中のサバナ』で墓地がそのフィルムに始まりと終わりを与えているのも、地面が捉えられその両義性が紛れもなくフィルムに固着させられているからだ。
『ミスティック・リバー』の地面は淀み、発露の場として焼き付けられる。全ての悲劇は地面から始まる。少年時代のジミー・ショーン・デイヴは、ボールが空を舞ってしまう野球ではなく地面と接触しながら転がるホッケーの真似事をして遊び、悪戯と度胸試しにと自らの名前を舗装中の歩道へと刻み付けた時、デイヴは車に乗せられ、その車は地面を滑っていくかのように走り去りデイヴを連れ去っていくだろう。子供達の生としての戯れが低位置からのカメラによって映し出され、デイヴの監禁という悲劇は地面を横滑りしながら加速され発露する。またジミーの実娘ケイティの遺体は、死の運命が淀み満ちているかのような古い熊の檻に横たえられ、カメラは真上から彼女と彼女を包む窪みと枯葉で埋め尽くされた地面とを捉える。終焉の場として決定的にフィルムに焼き付けられた地面はあらゆる悲しみを包括することなく、ただただ見る者へとこの事実を曝け出すことしか出来ない。だがイーストウッドのこうした俯瞰の視線が超越的視線に陥ることがないのは果たしてどういう事態なのか。この答えを導く為に、今一度思い出さなくてはならないのはケイティの遺体を捉えた視線が宙へ巻き上げられたということだろう。その悲劇の凝視に耐えられなくなった故か、また祈りを捧げる為にか、クレーンの俯瞰による視線は空へと投げ出される。この瞬間、我々が感じるのは更に上位にあるはずの神の存在ではなく救済への希望でもない、それは虚ろな虚空へと晒されるフィルムの過酷さに他ならないのだ。そしてこの過酷さは決して地面の両義性に由来するものではない。それは地面と空、水面という対比に、否、比べられることのない、そうすべきでない対置によって映し出されている。
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